秋も深まったある朝の風景。始業前の桜組はいつものごとくいつものとおりだ。  遅刻常習犯のあの子も、サボるのが好きなあの子も、今日はどうやら教室に来ている。いつものように授業が始まれば、いつものように椅子はすべて埋まるのだろう。  ……2学期になってから一度も使われていない一脚を除いて。  片賀井未森はその席に目をやって、それから教室を見回した。空席の主は、どうやら今日も来ていないようだ。別に未森は彼に好意を持っていたわけではない。ただ夏祭りの夜の事件の記憶はいまだに薄れたわけではなく、そして埋まらない椅子の空隙はまるで抜けない棘のように、いつまでたっても彼女の胸をチクチクと刺すのだった。  もう、2ヶ月だ。  やりきれなくなって、未森は席を立ち、もうひとりの目撃者に声をかけた。 「愛恩」 「……ふにゃ?」 「始業前から寝るなよ」 「ん、うみゅー」 「んもうっクロちゃんかわいいっ!」 「ひょっ!?」  ふにゃあ、と伸びをした途端にいきなり頭を抱き寄せられそうになって、反射的にクロは身を引いた。引いてから未森の顔を見て、しまったもったいないっ、と思ったかもしれない。未森の方はこれも驚いた顔でクロを見つめたが、どうやら理性を取り戻したらしい。きりり、とまじめな顔を作って切り出した。 「今井がどうしてるか、なんて……知らない、よな」 「……ああ、アイツか」  答えてクロは拳で顔をこすった。まだ眠そうだ。しかし彼の言葉は未森を驚かせた。 「このまえ会ったぜ、2週間くらい前」 「会ったのか!」 「たまたま偶然、な」 「そうか、それで」  未森は声をひそめた。 「今井、どうしてた? ……どうなってた?」  クロは他人の噂話を撒き散らしたりする男ではない。だが未森は真剣な表情で、本気で彼、あるいは彼女を心配しているように見えた。もういちど眠そうに顔をこすってから、クロはぼそぼそと話を始めた。   ■ ■ ■ ■ ■  お。女の子だ。  おや、とクロは思った。その日は平日で、学校はまだ終わっていない時間だったからだ。クロはもちろん得意のエスケープである。  身長はざっと160cm。細身の体に秋らしい茶色系のワンピース。陽を映して輝く長い髪を、こげ茶色の細いリボンでざっとまとめている。その横顔、たしかにどこかで見た子のように思える。  ……誰だったかなあ。  クロはそ知らぬ顔をして歩きながら、頭の中で知り合いの名簿をめくってみた。そして見つけた名前に自分でも驚いて、おもわず足を止めた。  相手もつられるように足を止めた。顔をあげないままで、こちらの様子を伺っている。クロはそっと、聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。 「……今井?」  弾かれたように、その子はもと来た方へ一目散に駆け出した。  真っ直ぐに道を行きかけ、そこに石段を見つけてそちらに向きを変えて、必死で駆け登って逃げてゆく。 「……逃げることはねえのにな」  クロはそれを見送って、家への道を歩き始めた。別に逃げる相手を追いかける趣味はない。  今井京彦、という名を用いるのは、もう適当ではないだろう。  九条京香は、全力で石段を登りきった。その上の門を入ると本堂がある。寺に用事があるわけではない。ただ隠れる場所を探して、京香は本堂を右から回りこんで山手へ逃げた。せまい道をむりやり入り込んでいくと、事務所や倉庫などの裏を経て、それから、視界が急に開けた。  そこは、小さな庭だった。  色を変えた山の木の葉がそろそろ散り始めて、固められた土の地面に散らばっている。秋の陽がここだけには燦々と降って、なんだかほっとする場所だ。息を切らせて京香は建物の脇にしゃがみ込んで、いま来た方を怯えた目つきで振り返った。  追ってくる気配はない。 ほっとして、京香は息を整える。  どうやっても、男として生活してゆくことは難しい。  京香はそのことをやっと受け入れて、女としての生活を始めたところだった。今日は女の子として初めて外に出て、意識の戻らない兄を見舞い、『決意の報告』をしてきたその帰り道だ。  完全に気持ちの整理がついたわけではない。それでも一歩を踏み出さなければ、義妹の美柑の言うとおり何も変わりはしない。自らの体調も省みず弟に尽くそうとして事故にあった兄だって、自分がいつまでもいじけていては回復できないかもしれない。どうにかしなければ、という焦りのままに、とりあえずがむしゃらに歩き出してみようと、彼女なりに決死の覚悟でワンピースを着て外出したのだった。  ……それがまさかこんな時間に同級生に会うとは、思ってもみなかったのだ。  そして、たったそれだけのことで自分がこんなに取り乱したのも、計算外だった。 「ざまあねえな」  自分に毒づいて、京香はそっと立ち上がった。いつまでも隠れているわけにはいかなかった。それこそ学校が終わる前に、早く家に帰って隠れていようと思った。  すっと秋の風が吹いて、さらさらと枯葉が舞った。光がはじけて、明るい庭に綾をなす。 「やっぱ、今井か」 「……!」  急に声をかけられて、京香は心臓が止まるほどに驚いた。  ふりかえったそこには縁側があって、クロがあぐらをかいていたのだ。 「なんで……!」 「なんで、ってここオレん家だし」 「!」  迂闊だった。クロは寺の子だと聞いていたはずだ。  立ちすくんだ京香に、クロはまったく普段の調子で言った。 「イモでも焼くかな、と思ってたんだ。付き合わねえ?」 「イモだあ?」 「落ち葉で焼くと、いけるもんだぜ?」  ちょっと迷って、京香はぎごちなくうなずいた。 「決まり。そこのホウキで葉っぱを集めといてくれな。お茶持ってくる」  サツマイモを包んだホイルをいくつか埋めて、クロは小さな枯葉の山に火をつけた。  あかるい光の中で炎ははっきり見えないが、ぱちぱちと乾いた音をたてて、葉が白く焦げてちりちりと小さくなってゆく。  集まった枯葉がいくらかの山になって、京香はすすめられて縁側に座って湯飲みを手に取った。クロは神妙な顔つきで、庭にしゃがんで火の加減を注視している。 「みんな、元気か」  沈黙を破ったのは京香の方だった。クロはちら、と後ろを振り返って、すぐに焚き火に視線を戻した。 「ああ。変わってねえぜ」 「……そうか」 「意外だな。お前がそんなのを気にするのか」 「まあ、少しくらいはな」  届かなくなって、はじめて恋しく思うものもある。  刺激の少ないつまらない学校のように思っていた姫琴高校1年桜組は、今の京香には平穏な日々の象徴のように思えていたのだった。もう2度と、あそこに帰ることはできない。ほろっと泣きそうになった心を、黙ってなんとかこらえる。 「気になるなら、来てみたらいいじゃん」  のんびりしたクロの言葉に、京香は顔をゆがめて自嘲的に笑った。 「行けるかよ。こんなナリでよ」 「そうか?」 「俺に力のあったころは、誰にも文句なんて言わせなかったからな。こんなので行ったら何言われるか分かったもんじゃねえ」 「無用の心配だ。杞憂って知ってるか?」 「ふん。みんな俺がいなくなってノビノビしてんだろうが」 「別にそんな風でもねえぜ。よっと」  枝を操って、クロは鈍い銀色の塊をひとつ掘り出した。京香はくんくんと鼻をうごめかせた。いつの間にか甘い香りがほのかに庭に漂っている。用意した竹串で、クロは火の通り加減を確かめた。 「うん。そろそろ、いい時分なんじゃねえかな」  クロの言葉の意味するところは、イモの加減なのだか京香の出席なのだか。だが京香の注意はすでにほとんどイモの方に向いていた。  ホイルを脱がせたサツマイモは、黒くまだらに焦げてみすぼらしく見えたのだが、割ってみると中はほっくりねっとりと美しい金色に出来上がっていた。立ち上る湯気とゆたかな香り、京香はしばらくあごの前でそれらををくゆらせるようにしてイモを見つめていた。それからそぉっと口を開けて、ゆっくり噛み締めてみた。 「うめえ!」 「だろ」  はふはふ、はくはく。はふはふ、はくはく。  京香はたちまちのうちにイモを平らげてしまった。それからため息をひとつ吐いて、堀り出されて焚き火の横にまとめて置かれた残りのイモをしばらく見つめていたが、思いつめたように口を開いた。 「……あのよ、もう一個、貰ってもいいか?」 「いいぜ」 「うお、さんきゅな」  いそいそと、迷わずいちばん大きいイモに手を付けた京香に、クロは苦笑した。 「……今井、変わってないな」  京香はそれには答えず、真剣な表情でホイルを剥いてイモを一口頬張った。それですこし落ち着いたのか、口をもごもごさせながら反論した。 「ほうか? いほいほ変はったぜ?」 「たいして変わってねえよ。男か女かなんて、たいした違いじゃねえんだぜ」  肉体よりも精神を重要視するクロは、心からそう思うのだ。だが、京香にはやはりそうは思えなかった。 「変わったって。ぜんぜん前より落ちちまったんだ、俺は。力とか、身長、体重、胃袋の大きさ……」  冷めた目で指を折って数え上げていく。 「もう、前の俺じゃねえんだよ。今井でも、京彦でもねえし」 「名前、変えるのか」 「ああ。って、もともと養子だからな俺は。苗字はもとに戻すだけだ」 「なんて言うんだ?」 「教えねえよそんなこと。もうお前には関係ねえ」 「……そうか」  それ以上追求しなくとも、クロは理解した。  京香がもう男には戻れない、ということ。  それから、元のクラスに戻るつもりはない、ということ。  実際、京香は他の学校への編入を目指して、すでに願書をいくつか取り寄せていたのである。 「うまかった。ごちそうさん」  京香は立ち上がった。長い髪とスカートが秋の空気にかぐわしく揺れた。  入ってきた細い通路に向かって歩き出しかけて、もう一度クロを振り返った。 「もう、会うこともねえかもな」 「会わないかもしれんし会うかもしれん。会ったらその時はもう逃げんなよ」 「おう。その代わり、またなんか食わせてくれ」  苦笑を交わして歩き出した細い背中に、クロはもうひとつ声をかけた。 「気を落とすなよ。世の中、意外なくらいどうにでもなんとでもなるんだからな」 「おう」  京香はもう振り返らなかった。人のいなくなった静かな庭に、鐘の音が鳴った。 「……諸行無常の響きあり、か」  まだくすぶっている落ち葉を見つめて、クロはなんとなく呟いて手を合わせたのだった。   ■ ■ ■ ■ ■ 「……というわけで、今井京彦ってやつはもうこの世にいないらしい」 「その言い方は趣味が悪いな」 「ま、別の誰かとしてどこかでなんとかやってるさ」  舞台は朝の教室に戻る。クロはお気楽に言ったが、未森は苦い顔をして考え込んでしまった。  チャイムが一日の始まりを告げた。  まもなく、からり、と扉が開いた。姿を見せたのは、だが授業の教師ではなかった。担任の洞井だ。 「みんな、座って。臨時の朝礼をするわ」  ぱんぱん、と手を叩いて一同を着席させた洞井は、ドアの外に向かって手招きした。  洞井に続いて、うつむき加減の女生徒がひとり、教室に入ってきた。  未森は、口をぽかんと開けて『彼女』を見つめた。開いた口がふさがらないとはまさにこのことだ。視線を横に飛ばしてみれば、クロも目をまるく見開いて、さすがに驚きを隠せない様子である。つまり、未森が見間違えたのではない。  教壇に立たされたのは、女の子に変わってしまった『今井京彦』だったのである。  学校指定のセーラー服に身を包み、長い髪にはリボンまで飾って。 「九条、京香 といいます。よろしくお願いいたします」  手早く洞井が黒板に大書した名前の前で小さな声で言って、ぺこり、と少女は頭を下げた。  空いていた席は、ふたたび埋まったのである。 「おい!」  一時間目が終わって休み時間になるや否や、未森は『京香』に声をかけた。  京香はあわてて未森に駆け寄るとその手を引いて、クロに目配せしてから教室を飛び出した。なにげない様子でクロも出てゆく。 「どういうつもりなんだ」  あたりにクロしかいないことを確かめて、未森は語気鋭く京香に詰め寄った。 「ど、どうもこうもねえよっ!」  京香も男言葉で言い返す。声は変わっても口調は今井京彦そのままである。 「ちょっと手続きに来ただけなんだよ! やけに朝早く呼び出すなあと思ったら、ためしにって制服着せられて、『それじゃあ合格w』とか言われて、あっという間に教室に呼び込まれたんだよっ! 勘弁してくれよぉっ!」 「だいたいお前、この学校には来ないんじゃなかったのか?」  冷静に突っ込んだのはクロである。 「き、来たくて来たんじゃねえよっ! 他は……」  京香はすこし言いよどんだが、もじもじと続けた。 「他のとこはぜんぶ落ちたんだよ、編入試験。そしたら姫琴が無試験で、入学金も一度払ってるから免除でいいとかってなってよぉ」  いまだに京香は知らないことだが、よりによって姫琴高校桜組は「そういう事情を持つ生徒を優先的に受け入れる」学級だったのであった。 「頼む。このとおり」  京香は丸い目に涙すら浮かべて、ふたりに深く頭を下げた。 「俺が今井京彦だってことは、お願いだからみんなには内緒にしてくれ。な?」  頼まれた二人は顔を見合わせた。もとより言いふらすつもりはないが……。 「俺、……わ、わたし、も、できるだけ女らしくしてばれないようにするから、な?」 「ああ、約束する」  未森が言った。クロもうなずいた。  だが「わたし」の一言だけで目の前で真っ赤になっている京香を見ていると、二人には、ばれるのは時間の問題でしかないようにも思われるのだった。  なにはともあれ。京香の時間が始まったのだ。