「まいどー。宅配ですー」 「はいー」  心地よい午睡のベッドから起き出して、俺はシャチハタを手に玄関のドアを開けた。  荷物が届くのはドキドキして嬉しい、という人も世の中には居るようだが、俺の場合はまったく違う。通信販売で買った物でも着くのなら話は違うが、学生の身分でしょっちゅう通販を頼めるほどの余裕はないし、なにより最近なにか頼んだ憶えはない。頼んでもいないDVDを送って来るほどアマゾンが親切だとも思えなかった。あんなに広告メールを送るくらいならたまにはオススメ商品を試供してくれても良さそうなものだが。  それはさておき、通販でないとするなれば荷物の送り主はもう決まったも同然、そうすると中身も決まったも同然。 「……田舎の親だな。この季節だとナスかトマトかキュウリ、いいとこトウモロコシか」  果たして気の進まない予想ほど当たるように出来ていると見えて、送り主は母親の名義。そしてダンボールには、まだトゲも痛いほどに新鮮なナスがびっしりと詰まっていたのだった。 「一人暮らしの大学生にこれをどうしろと言うんだ」  おもわず愚痴が口をついて出たのは許してほしい。いやもちろん食べろと言うんだろう、そこらのスーパーのナスとは味も香りも比べものにならないことは俺も身にしみて知っている。だが一食で食べられるナスの量などせいぜい2本か3本、それも3食も続けばたくさんだ。質がどうとかいう問題じゃない。  まず今夜は焼きナス、明日の朝は味噌汁で昼は塩もみ、それから……。一人暮らしの悲しさでそれでもついつい献立を算段しながら、俺はナスの上に入っていた手紙の封を切った。 『前略。嫁はまだ見つかりませんか?』  一行読んでさらにウンザリした。最近、実家と連絡を取りたくない最大の理由がここにある。だって俺はまだ21、なのにどうして嫁なんだ。田舎なら知らないがこっちでは同級生で結婚してるやつなんか誰もいやしない。なにより略しすぎだこの手紙。他に話題はないのか。 『きっとまだ見つからぬだろうと思って心配しており、また観音さまに願掛け等いたしましたところ、願ってもないものを授かりましたので送ります。』  ……山ほどナスを送る願いでも掛けてくれたのだろうか。それと嫁とにどういう関係があるのだろう。なにげなく目をナス箱にやって、俺ははじめてそれに気がついた。 「なんだ?」  ナスの山に半ば埋もれるようにして、100円ショップで売っていそうな透明なプラスチックのボトルがひとつ。手にとってよく見てみると、その中に入っていたのは真っ白に真紅の飛沫模様を染め抜いたような、見たこともないほど鮮やかな……ナスの、花。だった。  手紙にはもちろん続きがあったので俺は続きを読み始めた。 『長年ナスの栽培をして、私らも初めてお目にかかりました。伝説によれば紅白のナスの花には不思議な力が宿り、すなわち、それを食べた男はたちまちのうちに見目麗しき女子に変わってしまうと申します。』  ……その伝説がもしも本当なら、それは世紀の大発見だ。 『ぜひとも手近なご友人などに食べていただき、力づくでも嫁にしてしまうのがよろしかろうと』  だからどうしてそんなに切羽詰まって物を考えるのだろう。普通の女の子とお付き合いするまで待ってもいいとは考えられないんだろうか。俺はまだ21だぞ。繰り返すけど。 『この際もとが男だろうと女だろうと構いません。このお正月にはうちにお連れして将来を語らえるのを楽しみにしています。なお花の寿命はせいぜい5日、神さまの賜りしこの機会をぜひともお逃しなきよう……』  ……観音さまじゃなかったっけか? と思いながら俺は手紙を畳みなおした。  またしかし妙なものを送ってきたものだ。男を女にしてしまう花だと。あり得ない。  荷物のお礼の電話をしようかと思ったが、それでなくても嫁のことしか考えていない母親と冷静に話す自信はどうしてもなかった。そうだ、ハガキにしよう。後でハガキを書けばいい。  立ち上がった俺はいちおう花の茎が浸かるようにボトルに水を入れた。それから晩御飯に向けて鰹節と生姜を買いに出かけることにした。  その夜。 「……寝られんっ」  布団の中で、俺はギンギンに冴えた目をどうしたものか頭を悩ませていた。その夜はまた暑い夜で、しかも部屋には飢えた蚊が迷い込んでいた。すこし落ち着いたなと思うと、耳の中かと思えるほどのところでぷーんと鳴くのだ。  そしてゴロンと寝返りを打てば、狭い部屋だ。どうしてもアレが目に入る。  ナスの花。 『手近なご友人などに食べていただき……』  手紙の文面がリフレインする。そして、ついつい考えてしまうのだ。  大学の研究室に桜という名の奴がいる。男のくせに桜なんて名前なものだから誰もが優しい少年を想像すると思うが、初めて会った人がそれでもほうとため息をついて見つめるほどに、こいつは色が白くてまつげの長い優男なのだった。 「ねえ君、ボクね、同じ研究室なんだ、ヨロシクね」  最初に会ったときはオカマかと思った。でも桜は単にそういう男だったと言うだけで、極めて普通の感性の男子学生だ。ただその優しい物腰は、桜の整った顔立ちもあってむしろ女子には人気があるようだ。桜もそれを知っていてわざとナヨナヨと振舞っている節もあり、わりと気軽に女の子と付き合ったり、でも気が合わないと言っていつの間にか別れていたり、かと思うと別の女と出かけていたり、不器用な俺から見れば非常にうらやましい学生生活を送っている。  ……もしも、あいつに花を食べさせてみたとする。どんな女の子になるだろうか。  あのマユツバ手紙が本当だとすれば、あの花には「見目麗しい女子」になる効果があるらしい。だがそんなものがなくとも、桜は女になれば間違いなく美女になるだろう。普段からファッション雑誌を読むほど服装なんかにも気を使うヤツなので、きっと薄いブラウスやかわいいスカートなんかをはいて、周囲の男どもの注目の的になるに違いない。 「ねえ、ボクね、おんなじ研究室なんだ、仲良くしてね♪」  口調はそのままだって十分にかわいらしいのだ。にっこり笑って見上げるその仕草は男心を狂わせるのに十分だろう。もしも、もしもこの部屋で、あいつに花を食べさせて、そして力づくで俺のものにしたとしたら……。  ずいぶん長い夜になってしまった。ばかばかしい。そんなことが出来るわけはない。 「先生」 「あ?」 「出来ましたけど」  次の日の夜はバイトだった。家庭教師は労働量のわりに荒稼ぎできるのでオイシイのだ。  近所の高校生の拓斗君は某私立高校の三年生。なかなか頭の良い子で、ポイントさえ教えてやれば的確に力をつけそれを磨く。本人も両親もいまひとつ成績の伸びないのを気にしているのだが、これだけまじめでいい子を伸ばしてやれないのはむしろ教師に責任があるんじゃないだろうかと思う。 「あ、ああ、見せて」  熱心に問題集に取り組む姿を見ているうちに、俺はついつい想像してしまっていたのだった。  ……もしも。この子が、女の子だったら。  拓斗は高校生。ということは、もしも女になったなら女子高生になるわけだ。女子高生の部屋で、ふたりっきりで個人授業……。学校の制服のブレザーにスカートで、長い髪をリボンでくくって真剣に問題集に取り組む姿はきっと美しいだろう。うなじのうぶ毛は年下ながらもう十分に色っぽくて、シャンプーかなにかのいい香りがするはずだ。 「いいかい、ここはそうじゃなくって」  同時に参考書に手を出した手が重なり合う。 「す、すみませんっ」  彼女は顔を赤くして、あわてて手を引っ込めるのだ。ああそんな仕草を見ていたらこっちまで赤くなってしまう。 「あ、あの、先生……」 「なんだい?」 「もし、もしも私が志望校に合格して大学生に、あの……な、なんでもありません」  まじめな彼女はきっと恥ずかしがるばかりで、自分からは何も言い出せないかもしれない。だからここはもちろん先生の方から出口に導いてやらなければならないのだ。 「たっちゃん。ね、君ってほんとにかわいいね」 「や、やだもう、先生ったら何を冗談みたいな」  怒ったように問題集に向かう彼女。頬が紅色に染まっている。とってもかわいい。 「ねえ。春になったらさ……」  それでも聞こえないふりをして、彼女は問題集に取り組む。でも俺には分かる。彼女はどきどきしながら次の俺の言葉を待っている。そして俺はついイタズラ心で、人差し指を真っ赤に染まったやわらかな彼女の頬に……。 「うひゃあっ」  拓斗が妙な声を上げて、俺ははっと我に返った。  ……つい。なんとなく。俺は拓斗の頬をつついてしまったのだ。 「何ですか先生っ」 「あ、いやあの、……なんでもない、ごめん」 「こっちは真剣なんですからね!」  俺の顔をしばらく睨んで、それから拓斗は不意に笑顔を見せた。 「休憩にしましょうか。今日は母がロールケーキを買ってあるんですよ」  ああっ。もしも、もしもこの子が本当に女子高生だったなら、いや……もしも、この手で、女子高生にしてしまったならば……! そして、今の俺にはそれが出来るかもしれないのだ! 「つ、疲れた……」  部屋に帰った俺はとりあえず荷物を投げ出してベッドに倒れ込んだ。普段の半分ほどしか身の入っていない授業をやらかしたように思うのに、普段の3倍くらい疲れたような気がしている。  そのまま横を向けば、もちろんそれはそこにある。  紅白のナスの花。  心なしか、着いたときより少し元気がないかもしれない。 「だけどこんなモノがあると、むしろこっちの身が持たんぞ」  男を、女にしてしまう花。  もちろん本当かどうかは分からない、いや常識で考えればそんなモノが存在するはずはないのだ。  だが、そんな効果を持つかもしれないというその可能性だけで、どれほど俺の心を惑わせるのか。 「いっそ、捨ててしまおうか」  空想することは出来る。だが実際問題としてそれを使うかどうか、しかもあと2日しかない中で使う決心が出来るかどうかと問われると実現性はほとんどゼロだ。あるから妙なことを考えるのだ。なくなってしまえばもう悩むことはない。  そうだ。やっぱり捨ててしまおう。  大きく息を吐いて、俺はベッドから起き上がった。 「よお、なんか食わせてくれ」  チャゲが不意に訪ねてきたのは、その次の日の夕方だった。  こいつは俺の同郷で、昔っからの友人だ。もっとも大学は別なのだが、住んでいるところは近いから今でもこうして互いの財布がピンチになると行ったり来たりする仲だ。ちなみに本名は飛鳥と言う。 「ナスしかないぞ」 「上出来だ」  食い物があるのに追い返すわけには行かなかった。チャゲは部屋に上がりこんで、「お」と声を上げた。 「なんだお前、花なんか飾って。女でも出来たのか?」 「田舎からナスと一緒に送って来たんだよ」  ……そう。俺はまだナスの花を捨ててはいなかった。捨てるに捨てられなかったのだ。 「米はないぞ。スパゲティにしようと思ってたから。いいか?」 「おう、それでいいじゃん」 「それなら何とかなるだろう」  なべに水を張って火にかける。その間にもうひとつのコンロでナスを焼く。スパゲティのナスは油で炒めるのが定番みたいに思われているが、実はそのまま素焼きにするのがいちばんうまい。チャゲは勝手にテレビをつけてベッドの前にあぐらをかきながら、口だけは気にするみたいに言った。 「手伝うぜ」 「……いや、いいよ。座ってな」  ナスの花の推定期限は、あと一日。  誰かに使う気があるならば、きっとこれが最大の、そして最後のチャンスだろう。  もしも、俺がこれをあいつの皿に刻み込んだら、あいつは、チャゲは、どうなるだろうか。  湯の沸いた鍋に塩とオリーブオイルを少々。それからパスタをひとふくろ。  焼けたナスは熱いうちに皮をむいて、手で裂いて一口で食べられるように。  それから生姜をおろす。ナスと生姜はめっぽう相性がいい。  そして、俺はさりげなく花を抜き取って、素早く細かく刻んでしまった。生のままだとばれるかもしれない。ボールにゆで汁をとって、余熱でざっと茹でてみた。味を見るわけにはいかない。妙に刺激のないことを祈るのみだ。これにおろした生姜と塩、それにオリーブオイルを加えて味を調えソースにする。同時に自分の分も作る。もちろん俺の食べる方には花は入っていない。  ちらっとチャゲを盗み見る。面白くもないバラエティ番組に手を打って笑っている。仕掛けに気づかれる可能性はない。  茹で上がったパスタとナスを、それぞれの皿でソースにからめる。香り付けにしょうゆをひと匙、それから鰹節を山盛りいっぱい。  ふるえる声で、俺はチャゲに声をかける。 「お、おい、出来たぞ。和風スパゲティ焼きナス風味」 「やけに早いな」 「ま、まあお手軽パスタだからな。の、伸びないうちに、……食えよ」  そして俺はあいつの顔をまともに見ずに一気に自分の分をほお張った。あいつも一口食べて、「おおうめえ」と言ったきり、あとは二人とも無言で一気に山盛りのパスタを  ……食べてしまった。 「ふう食った食った」  腹をかかえてチャゲが笑って、そして冗談みたいに言った。 「お前、いい奥さんになれるぞ」 「そうか。ふふふ、そうかそう思うか」  普通なら腹を立てるか、冗談にしても言い返すところかもしれない。だが俺はおかしかった。だって。 「……だって奥さんになるのはお前の方だ」 「は?」 「見てみろよ、自分の体を」  チャゲは自分の体を見下ろした。自分の……いや、自分のものとは思えない、細くて丸い女のカラダを。 「な、なんだこれ?」  あわてて立ち上がった。豊かにふくらんだバストが、Tシャツの下で揺れた。 「お、おいっ、鏡は?」 「洗面所だ」  チャゲはあわてて洗面所に走っていった。そして。 「きゃああっ」  あがった悲鳴はもう完全に女の声だ。俺もゆったりと立ち上がって洗面所へ向かう。  そこには髪の長い美女が、自分の胸に手を当てて声もなく鏡をのぞきこんでいた。見目麗しい女になる、という効能に嘘はなかったようだ。 「つまり、そういうことだ」 「どういうことだ! なんだよこれ、お前、俺に何をしたっ!」  細い体を後ろから抱きしめると、チャゲはひっと小さく叫んで静かになった。その耳元に口を近づけた、俺はそっとささやいた。 「つまりお前は、俺の奥さんになるのさ」 「ふう、食った食った。お前、いい奥さんになれるぜ」  チャゲはにこやかに腹をさすって立ち上がった。 「あらあなた、お口にあったみたいで嬉しいわ」 「げ、気色ワル」 「作ってやったこっちの気分が悪いわい」 「いやいや、それぐらいおいしかったんだってば。まあ怒るな、次はうちでなにか作るよ。やっぱ持つべきものは腐れ縁だな」 「悪かったな腐ってて」  チャゲはスパゲティで腹をふくらませて満足そうに帰って行った。テーブルの上のナスの花は、あいつが来た時のそのままに揺れている。  結局。  俺には空想は出来ても、花を使ってあいつを女にしてしまうことは出来なかったのだ。  そして残りはたった一日、もうこれを使うチャンスは残っていないだろう。 「これで……これで、いいんだよな」  親の言葉となすびの花は千にひとつの無駄もない。  嘘ばっかりだ。無駄ばっかりじゃないか。だいたい親が気にしすぎるんだよ。21で彼女がいなくてどうしてそんなに気にかかる? なんにも困らないじゃないか。そりゃあ居た方がいいに決まってるよ、でも出来ないものはしょうがないんだよ、な。  ものがあるから使わなければいけないんじゃない。必要なものを使えばいいんだ。親心? 知るか。むしろ子供の心をもうちょっと気遣えってんだ。  テーブルの上の花はなんとなくさびしそうだ。だけど、これがあるからといって、どうしても誰かを女にしなきゃいけないわけじゃない。突然女にされてしまう相手のことをほんのちょっとでも思いやれるなら、何をどうしたって使えるものじゃないんだ。 「寝よう」  手早く洗い物をすませて、俺はベッドに横になった。 「おやすみ……さよなら」  その夜の間中、俺はずっとうなされ続けた。  ……使わなくていいの。  美少女になった桜がささやく。  ……使わなくていいんですか。  女子高生の拓斗がまっすぐな目で見つめる。  ……ほんとに使わなくていいのね。もう二度とないわよこんなこと。  エプロン姿で長い髪のチャゲが豊かな胸を揺らす。  ほんとに、使わなくて、いいの。  二度とないわよ。  二度と………。  …………。  結局、正月は一人で田舎に帰ることになった。当たり前だ。あれから半年たらずで婚約者なんて出来るわけはない。なにより俺はまだ21だ。きっとこれから、いつかは素敵な人が現れるだろう。  枯れた田んぼに稲の株が並ぶ。風が冷たい。やけに静かだ。  たった一年離れただけの田舎なのに、妙に懐かしく感じる。懐かしいと同時に、なんだか新鮮。立場が変わると景色も変わって見えるものなのだろうか。  妙にどきどきしながら実家の呼び鈴を押した。実は帰ることすら知らせていない。 「はいー」 「ただいま」  母親は妙な顔をして俺を見上げた。まあ無理もない。 「ど、どうかな、やっぱりおかしいかな」 「……はあ」 「でもね、最近は結構モテるんだよ? 几帳面だし料理はうまいし見目麗しいし」 「……はあ」 「いやあの、……ほら、せっかく送ってもらったものだったしさ」 「……はあ、あの」  そこまで来て、母親はかっと両目を見開いた。 「まさか、まさかお前っ!」  今日のために切り揃えた、やっと肩まで伸びた髪。すこしづつ慣れてきたけどまだぎごちないルージュを引いて、新調したてのスーツに……タイトスカートで、俺はにっこりほほえんだ。 「いいものを送ってくれてありがとう、お母さん!」